前々回(「虚実」の原点-1)の引用➀では、『孫子』の「虚実」概念を医学に導入し始めた段階で、現在の様に狭義の意味だけでなく、まだ比較的自由に広義に使用している文章として『霊枢』の九鍼十二原篇が解説されて居ました。
 本来はもっと「広義」である事を忘却してないか?、とは藤木先生に既に指摘された事ですが、未だに「狭義」の現在の意味だけが「虛実・補泻」の全てだと思い込んでいるのが鍼灸業界の大多数の現状では無いでしょうか?
 同様の指摘が、別の先人からも有りましたので、それを見て置きましょう(➃)。

➃島田『治す悩みをこうして克服した』から要約
「補泻法はすべて『内経』から出発している。時代を経るにしたがって工夫が加わって手技が発展してはいるが、常に出発点に立ち戻ってみる必要が有る。鍼灸は補泻に始まって補泻に終わるが、『内経』は「補泻」を、一般に言う様に「正気を補し、邪気を泻す」とだけ考えている 訳では無い。『霊枢』の冒頭の九鍼十二原篇は「➀虛するときは之を実せしめ、➁満ちるときは之を泄らし、③宛陳するときは之を除き、➃邪の勝つときは之を虛しうせよ」の四原則を示している。①と②は「正気」の虚実に対する補泻を言い、③は虚実には関係無く、鬱滞した気血が在れば取り除くべき事を指摘し、④は邪気が勝っているときは之を泻せ、と言っている。重要なのは②の正気が満ちているときがあり、これに泻法を施さないと病気を引き起こすと見ている点と、③の鬱滞している気血を取り除くのは補泻とは無関係と見ている点である。しばしば「刺絡は血を見るから大変な泻法」と誤解されている。刺絡は補泻とは無関係であり、鬱滞した気と血を疎通させて正気をスムーズに流注させる別の方法である。「九鍼十二原」篇に立ち戻り、原点を見直す必要があるが、見直すとしても、医古文解釈の新しい学問成果を使わないと、古い解釈から抜け出せないと指摘せざるを得ない。」
                         (『島田隆司著作集』下冊103~104頁)

疎通優先

(以下、「滞り」と疎通-1に続く。)